里山福祉の研究

里山福祉の研究
                  渡邉洋一

 はじめに

 私たちは、本邦の風土には古来の仕来りや習わしによる‘暮らし’を、仮に‘里山’の文化と呼ぶことにしました。このことは、地域社会の意識構造に里山の文化が根付いてきたと考えているからです。あわせて、本邦には歴史的に‘里山文化’が重層的に保持されてきているという立場をとることとしました。その理由は、最近、簡単にコミュニティという用語を使用し過ぎると考えてきたからです。さらに、地域福祉という用語に対しても過度に期待され過ぎていると認識したからです。しかも、地域福祉が過度に政策用語になってきたことが危惧されます。このような枠組みで、‘里山福祉’という用語について検討してみたいと思います。
 第一として、里山という用語には、素朴な冠婚葬祭の饗宴があり、地域の風土に即して伝統食によって人と人の人間関係が整えられてきた歴史があります。また、農林水産の生業から得た食材を地域産業としてきた食による流通文化もあります。これを‘食’と整理してみました。また、第二として、里山の集落には、農林水産などの生業を継続することで暮らしを立ててきました。そこには、自給自足と地産地消による文化の暮らしの立て方だったといえます。さらに、陶芸や鍛冶屋や機織りという生業は、地域産業としての伝統を保持してきました。これを広い意味での‘農’という用語でまとめてみました。次に、第三として、里山には、相互扶助としての親族間や隣近所での素朴な支え合いの習わしがありました。ある種の集落や部落を単位とした相互扶助の活動無しには‘暮らし’は成立しなかったといえます。このことで‘福祉’という用語の広がりを検討してみました。もちろん公助としての‘福祉’は不可欠です。
 この三点は、それぞれ、分離することなく、地域の風土にあわせて、渾然一体となって集落を単位として暮らしが成立してきました。このように、三点の里山の文化について仕組みを整理すると、本邦では、‘食(饗宴・伝統食)’と農(農林水産の生業や機織りや家事の職)と、福祉(相互扶助・支え合い・互助)によって地域社会は、農耕文化を形成してきたといえます。この視点は、‘食と農と福祉の協働による里山文化’と整理することとしました。
 ‘里山福祉’は、このような視座を背景として、法律による制度という既存の社会福祉や社会保障の概念とは異なる視座から吟味しています。もちろん公助としての‘福祉’は不可欠です。具体的に、‘里山福祉’の概念を簡単に説明すると、食と農と福祉の連携による素朴な暮らしへの原点回帰といえます。言い換えれば、本邦の風土には、輸入された社会福祉概念や制度政策による社会福祉システムのみで解決できえない‘人としての基本的な課題’があったことを想い返すべきであると考えています。このような原点回帰を模索する用語として‘里山福祉’と呼ぶこととしました。もちろん、昔は良かったというロマンの視座ではありません。今日の硬直化した社会福祉の実施体制を吟味するための作業です。
 第一義的な公的責任は、市民運動の立場から追及することとします。しかし、里山福祉の立場で吟味していくと、租税や法律で‘安寧な死’や‘暮らしの安心’を支えられないと考えています。公的な制度政策だけでは、社会福祉問題を解決できないと考えるようになりました。そのことは、里山の‘安寧な暮らし’は、すぐれて、一人一人のくらしや家族・親族・隣近所の人間関係や社会関係に制約されていて、そこにこそ‘安寧な死’に繋がる里山の暮らしという視点があるのではないでしょうか。したがって、地域福祉という用語を流行の言説から、里山福祉(都会型は下町福祉)という素朴な暮らしの視点から見直しています。

第一の論点  農林水産省所管‘地域における食と農と福祉の連携の在り方に関する実態調査検討委員会’報告書が、2015年度末に公表されました(座長渡邉洋一)。
この報告書では、農を取り巻く環境や、福祉を取り巻く環境は、既得権益や高コスト体質があることが指摘されています。また、補助金に依存しきっていて、コミュニティビジネスなどの視点が乏しいことも危惧されています。社会福祉にあっては、社会福祉法人の課題など、農業にあっては、農業協同組合の課題など、しなやかで安寧な暮らしを検討するためには、農と福祉の連携が必要であるといえますが、そこには、大きな経営・ビジネス化して‘何か’を喪失していると考えています。補助金に依存した経営第一主義にあるといえます。そこで、‘食’の視座を組み入れて、食という伝統食や冠婚葬祭の饗宴の可能性をのうと福祉に連携させることで、新しい局面が見いだせると考えました。地域社会を基盤として、‘小さな稼ぎ’というコミュニティビジネスや、寄付文化を再考すべきであると提起しています。例えば、広島県の‘(社福)優輝福祉会’は、特別養護老人ホームや知的障がい者施設を小規模化・地域展開していてレストランやケーキ屋などを経営しています。あわせて林業に取り組むなど里山福祉という食と農と福祉の連携の実践といえます。また、‘食と農と福祉の連携’の基本は、前記した農水省の報告書に詳細に検討された経過が述べられています。参照ください。

第二の論点 レヴィ=ストロースの自然概念や和辻哲郎の風土概念 
 レヴィ=ストロースの著作『構造人類学』(みすず書房1972年荒川幾男他翻訳)で著名な社会人類学者です。フランス構造主義の祖としても著名です。晩年、日本の自然の研究にあたり、本邦の地域社会の研究を新しい視点から論考していることが参考になりそうです。
 レヴィ=ストロースの著作では、『野生の思考(パンセ・ソバージュ)』(1962年)が著名です。レヴィ=ストロースは、日本は歴史的に自然を人間化する活動が農耕文化として形成されてきたとしています。例えば、田園や田畑は‘具体的な行為や事象’によってつくられてはいないとしています。弥生時代に水田による稲作を開始しますが、田んぼは土地を平らに均さないと作れないために、大きな自然破壊をおこなったともいえます。しかし、人間の目的のために完全に自然を改変し尽くしたり、制圧したりする方法ではなく、‘自然本来の事象’の「はたらき」を借りて、日本的風土の自然のもつ自発性を生かしながら、最適の環境をつくり出そうという努力が重ねられてきたと説明します。日本の美しい環境や風景について、レヴィ=ストロースは上記のように明確に認識していることが背景にあり、人間の手の入っていない風景はほとんどなく、自然といわれているものにも、何らかの形で人間の「はたらき」が入っています。それは、職人の仕事における「はたらき」と同じ受動的な性格をもち、それをもって日本人の環境はつくり出されてきたのではないかとしていることが重要だといえます。(中沢新一著作他参照)
 視点を変えると、和辻哲郎著『風土』1935年岩波書房において、「風土と呼ぶものは、ある土地間気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称であるとしています。それは古くは水・土とも言われている」(同著8頁)が参考になります。ここでは、人間は、風土の中に住まい、風土も人間の中に姿を現していることを端的に論考しています。さらに、我々の意識や自我は、風土の中に見出していることを指摘しています。和辻の考え方の特徴に「人間であるとは、風土の下で他の人たちと共に生きることである」としています。さらに、その後の和辻の研究は、『古寺巡礼』へと発展しています。また、和辻は、「人間存在の二重構造」という指摘も重要です。和辻の『人間の学としての倫理学』では、‘人間は単に人の間であるのみならず、自、他、世人であるところの人の間なのである’としていることが里山文化の根底を成していると考えています。
このようなレヴィ=ストロースや和辻哲郎の考え方では、人間と自然の関係を示唆したものと理解できます。そこでは、本邦の風土や自然という概念の意味に、多くの哲学的な視座を組み入れることで、人間理解を進めようとしていることが重要であるといえます。
 筆者は、著作『コミュニティケアと社会福祉の展望』(2005年相川書房)や『コミュニティケアと社会福祉の地平』(2013年相川書房)において、‘風土的社会福祉’という概念を指摘してきています。この‘風土的社会福祉’の意味することが、現在、里山福祉の概念へと昇華しています。しかも、里山福祉は、‘食と農と福祉の連携’による産土から生じてくる人間福祉や安寧な暮らしへと吟味して研究を継続してきたものです。

第三の論点 里山福祉の持つ意味と課題
① 里山とは
 ネットなどを参照していると、一般的に里山(さとやま)とは、集落、人里に隣接した結果、人間の影響を受けた生態系が存在する地域を指していて、深山(みやま)の対義語と理解されています。里山は、人里近くにあり、生活に結びついた山や森林が多く、薪(たきぎ)や山菜の採取などに利用されてきました。適度に人の手が入ることで生態系のつりあいがとれている地域を指し、山林に隣接する農地と集落を含めた概念であるといえます。もともと山郷(やまさと)も同様の意味をもっているようです。
 参考までに、里海は、里山のように人の手が入ることで沿岸域の生態系が維持できるという考え方を基本とした地域を指しています。1990年代後半、九州大学の柳哲雄教授(沿岸海洋学)が提唱し始めたとされます。環境省は一昨年、ホームページを立ち上げ里海を啓発しています。また、「SATOUMI」は「TSUNAMI」のように、国際会議などで標記がそのまま使われていることもあります。
さらに、里川(さとがわ)とは、普通に使いながら守る水循環を、〈里川〉と定義されています。機関誌『水の文化』15号(2003年10月「里川の構想」)で特集を行なったほか、「里川とは何か」を問い、「水と人とのかかわり方」の再構築を目指して、里川によって、持続可能な社会を目指すこととしても理解されています。
 このように、一般的な‘里山’を巡る意味は抽象的な用語としていて、定説があるわけではありません。

② 里山福祉が取り組むべき課題
 税金による丸抱えの‘社会福祉の資源’は、近い将来に、破たんすることが危惧されています。その理由は、少子高齢社会では、‘社会福祉の資源’に要する膨大な経費を負担できなくなっているからです。また、経費を要していることに比べて心地よい福祉ではないことも指摘されています。したがって、社会福祉関連施設の魅力に乏しいことから、働き手が確保困難となっています。このように、地域社会から隔離して対応する入所施設群や高度医療施設群は、このシステムを維持していくことの社会的な負担に比べて、‘安寧’に暮らしを保障してはいないことは自明なことです。
 また、硬直的な社会福祉システムを地域福祉という視点から改革しようとする試みもされてきました。ここで言う社会福祉と地域福祉との違いや意味も多様に語られていて、住民の暮らしとは遊離しているといえます。近年では、社会福祉経費を抑制するために地域福祉という用語を持ち出している事態も見受けられます。なお、この地域福祉という用語にあたる欧米の用語は見当たりません。地域福祉という用語は、岡村重夫の造語として説明されてきたもので、そろそろ賞味期限が切れてきたと考えています。平成12年の社会福祉法の成立によって、法の目的な地域福祉の推進と明記されました。おそらく、この時から地域福祉は官制用語となり、政策用語となっているといえそうです。これまでのように、安易に、硬直的な社会福祉を地域福祉へと変革していくことで、社会福祉問題が解決するとは言えなくなりました。

③ 里山福祉の展望
 このような中で、包括的な暮らしを支え合うことを可能とする地域社会の在り方を検討してみたいと思います。
 具体的には、‘食と農林水産と福祉’の協働について検討してみることから、食い物と、生業(農林水産)と、助け合い(福祉)を連携させることによって、地域社会を包括的に見渡すことを可能とする高見が理解できると考えています。もちろん、今日的には、さらに発展した商工産業の生業は、商品化・高度産業化を経て、高度資本主義を迎えることとなりました。しかし、何か取り残した事象が‘里山’の暮らしにあったような郷愁を覚えることが多くなりました。それは、あまりにも高度化した現代社会は、非人間的で、本来の暮らしが見えなくなっていることは周知のことと思います。高度産業社会では、制度化した‘社会福祉の装置’によって、入所施設や病院など負の側面を覆い隠してきました。また、前記したように本来の暮らしとは遊離して成立した‘社会福祉の資源’は、膨大な経費を要していて、社会保障の財源が確保できなくなっていることが危惧されています。さらに、今日の‘社会福祉の資源’は、‘安生・安育・安働・安死’という願いとはかけ離れていて、暮らしの安寧をもたらすシステムとはなっていないように思います。
 さらに具体的に里山福祉について検討してみたいと思います。
 里山福祉は、人間の営みを本来の姿から吟味して、社会福祉の在り様を原点から考え直すことが問題の基本に据えていることから始まっています。里山福祉は、前記した‘食と農林水産と福祉’の協働によって、地域社会が形成されてきたことを提起しています。すなわち、素朴な暮らしは、‘食と農林水産と福祉’を協働させていくという包括的で、豊かな人間関係がある地域社会に中にあるべきだといえます。また、‘食’は、伝統食や饗宴の文化や食のコミュニティビジネスなどがあり、‘農’は、農林水産の生業(なりわい)や社会参加と、商うことへの参加があり、地域社会の支え合いや相互扶助を基本とする‘福祉’と租税による公助が連携されていることであり、この三点を連携させていくとう視点を強調したいと思います。
 このように、里山福祉(食と農と福祉の連携)は、既存の社会福祉が公助中心であることと比べて、互助や共助を組み入れた考え方です。里山福祉という用語のイメージから、地方部や中山間地域の集落福祉と考えられがちですが、都会や都心の下町福祉をも含めて考えています。したがって、里山福祉は、生まれた地域・育った地域・住み慣れた地域という意味であり、‘安生・安育・安働・安死’を可能とする人間関係や社会関係の束となりえる地域社会の在り方を示しています。
 
④ ‘まっとうな’暮らしへの回帰
 高度成長と産業の発展が進行したわりに、‘本物の食’や‘本物の農’や‘本物の福祉’が見当たらないという課題があります。それは、‘安生・安育・安働・安死’という願いが達成されていないということでもあります。まさに、‘まっとうな’暮らしが喪失してきたということでもあります。
 第一として、‘本物の食’という意味では、除草剤などの散布や食品添加物や遺伝子組み換え食品の問題など枚挙にいとまがない課題があります。まさに‘まっとうで、本物の食い物’なくなってしまったといえます。視点を変えれば、多くの疾病が食品添加物などによるものという指摘も多くあります。膨大な医療費の課題は、‘健康食’の摂取を進めていくことで解決するという考え方は、‘本物の食’という伝統食や自然食への回帰が不可欠となっていることが背景にあるからです。
 第二としては、‘本物の農’という意味では、農林水産業や鍛冶や陶芸や織物という生産手段の確保は、本物の暮らしを支える生き甲斐や社会参加や働く場を確保することにつながります。‘100円ショップ’にみられる偽物の氾濫が‘地方の職’を喪失させてきたという反省が基本にあるからです。視点を変えると、地産地消・産地直送は、地方創生へと繋がっていきます。あわせて、‘ヘルスプロモーション’という視座の健康創生は、手間と暇と時間を共有していく、農林水産業や鍛冶や陶芸や織物という伝統工芸への参加によって創られると考えています。それは、社会的な役割や参画を進めることとなり、生き甲斐や豊かな社会関係が活性化していくことで健康寿命への貢献が期待されます。この意味でも、膨大な医療費増の軽減への期待ともいえそうです。
 第三としては、‘本物の福祉’の課題です。制度化されていて過度の租税に依存している現行の社会福祉のシステムは、限界にきていると考えています。例えば、個別法による縦割りの法律体系による社会福祉施設などの仕組みは包括的なコミュニティケアへと変革させていく課題があります。脱・占有思想を進めることで、ユニバーサルな包括的な支援の仕組みに組み替えることでサービス利用が効率化する上に、利用いやすくなることが期待できます。さらに、社会福祉法人という租税丸抱えの社会福祉施設経営は、非能率的・目的外支出など家族経営の問題など課題が山積みとなっています。欧州が施行している‘社会サービス法’への統合化なくして、‘本物の福祉’へと改革していくことには期待ができません。さらに、素朴な隣近所の活動が担う‘相互扶助’を組み込んでいくことは、‘互助’や‘共助’の創設へとつながっていくことになります。福祉サービス利用者自身が提供システムへ参画することも期待ができます。
このような‘本物の食’や‘本物の農’や‘本物の福祉’の希求は、コミュニティケアという包括的な支え合うことを含む社会福祉の実施体制へと改革することになります。しかし、狭くて暗い社会福祉の実施体制から、食の文化や農林水産の生業を組み入れていくことで、安寧で素朴な‘まっとうな暮らし’を創設していくこととなります。この‘まっとうな暮らし’の基礎が里山福祉という展望であることを提起したいと思います。

⑤ 里山資本主義と里山福祉
 既得権益が‘格差’の根源となっているという認識があります。この‘格差’の増殖の根源が‘資本’の暴走という理解に立った時、里山への回帰は資本の暴走への挑戦という意味があります。生産手段を里山や下町へ回帰させることで、経済的に貧しくとも、豊かな暮らしが見えてくると考えています。
 そこで、里山資本主義(英名: Satoyama Capitalism)という用語を検討したいと思います。例えば、藻谷氏は、『里山での生活を、資本主義社会の欠陥を補うサブシステムとして位置づけ、里山の活用を図るべきであるとする考え方。里山に、自然環境や人間関係などの「金銭換算できない価値」としています、多様な資源の活用をはじめとする「金銭換算可能な価値」の両方を見出し、これらの価値を最大限に生かして、資本主義に足りないものを補うことを目指す。地域社会だけでなく、都市生活者からも多くの支持を集めている』 『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』藻谷他角川新書2013。
 このように同書のテーマは里山資本主義です。里山資本主義とは、地方において、里山の休眠資産を利用して、できるだけ食料・エネルギーの自給自足を目指そうという試みです。自給自足といっても、昔の不便な生活に戻ろうというのではないと記述されてあります。あくまで、今の便利な生活を維持しつつ、そのうえで里山に眠る資産をもっと利用という試みです。今の経済の仕組みは、お金のやり取りをもとにしたマネー資本主義だといえます。里山資本主義は、このマネー資本主義に取って代わるものではなく、平常時にはサブシステムとして、非常時にはバックアップとして機能するものと同著では指摘しています。
 さらに、里山資本主義の例としては、広島県の庄原市の優輝福祉会では、学校や老人ホームの食事の一部を、農家の余った野菜で賄ったり、里山で余っている木材を使ってバイオマス発電を行い、家庭や企業の電力の一部を賄ったりという話が書いてあります。また、安価で作れるエコストーブや、地域の果物を使ったジャム作りの話も書いてあります。さらに、こういった活動を通じて、地域のコミュニケーションが活発になったことが報告されています。

⑥ 地域共生社会の構想と里山福祉
 地域包括ケアの展開として‘地域丸ごと’への政策期待があります。地域共生社会はその一つとして実現化が模索されています。例えば、地域色が濃い過疎地域では、この地域共生社会の考え糧や取り組みとして、食と農と福祉の連携を図ることが具体策の一つかもしれません。保健医療福祉の連携や、高齢・障がいなとの対策の包括化のためには、地域社会との連携が欠かせないからです。地域共生社会は、これまでの検討から、地方部では、広い意味での里山福祉という考え方が、都市部では下町福祉という考え方とあわせて広げていきたいと考えています。

結語
 筆者は、前記したように拙著『コミュニティケアと社会福祉の展望』(2005年相川書房)や『コミュニティケアと社会福祉の地平』(2013年相川書房)において、‘風土的社会福祉’という概念を指摘しました。この風土的社会福祉を吟味してきた結果からは、里山福祉へと原点回帰させることで、新しい素朴な暮らしを再吟味してみることで、新しい社会福祉の地平が見えてくると考えるようになりました。
 このように、里山福祉は、たんなる思い付きの概念として提起したものではありません。前作の拙著『コミュニティケア研究』(2000年相川書房)以来、国際比較研究として英国のコミュニティケア研究を経ることで、社会福祉の在り様を里山化してみたいと考えるようになりました。その到達点が食と農と福祉の連携による里山福祉という概念です。その意味は、既存の社会福祉が制度・政策に偏りすぎたと考えているからです。さらに、‘本物の食’や‘本物の農’や‘本物の福祉’が見当たらないという危機感からでもあります。